市原稲荷神社<縁結び・開運厄除け・商売繁盛>
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伝統の祭り
神社では祭りが営まれています。祭りは神霊を呼び迎えて、これに供物を捧げ、神楽を奏し、神のお告げを頂いて、共に直会(なおらい:供物・酒のお下がりを参列者一同で分けて食べる宴会)を催すことであります。のち神興の渡御・獅子舞・囃子などが行われるようになりました。時代が進むと、村ごとに氏子たちの楽しい活力のもとにもなりました。市原稲荷神社の伝統の祭りについては、多くの記録が残されているので、次に記してみます。
四月祭り

天明8年(1788)七月刈谷町庄屋が刈谷藩に報告した「祭礼由緒」によると、市原稲荷神社の祭りは宝永5年(1708)から始まり、一年おきに行われるようになったとあります。これは稲垣氏の時代であり、貞享4年(1687)から祭礼に華車・警護・本町獅子がでるようになったという記録があり、この年本町は華車を買い求めています。祭日は4月1・2日でしたから、四月祭りと呼んでいます。

祭日には神興の渡御があります。神興は本町の獅子を先頭に秋葉神社まで巡行されて休憩、市原稲荷神社に御帰還になります。お旅行列とも呼ばれます。獅子は慶長年間に刈谷城主水野勝成が寄進したものと伝えられています。この年から、本多氏の家臣である多門伝十郎信秀作の猿田彦の面が登場するようになりました。

正徳元年(1711)4月の本多忠良の時代まで、祭礼は本町が神事を行っていましたが、正徳2年(1712)末町へ獅子を譲り、以後末町が宮元となりました。延享4年(1747)土井氏が西尾から刈谷に替わった年には、城下町の町数は十町となって繁盛していて、祭りは盛大に行われました。


神谷万吉の記録

祭日の四月一日には城主が参拝される。町口番所には物頭・町奉行・下役・徒目付らが立ち会う。警護には鉄砲十挺玉箱・弓十挺矢箱・御長槍十本が当たる。翌日の祭礼には、家老が藩主の名代として参拝する。朝太鼓を合図に町口門が開き、本町の獅子を先頭に城内に入り、大手門から櫻馬場を通り抜けて神社に着く。ここで参拝の行事があって神興が出御される。警護を従えて行列は市原口門から櫻馬場・大手門を抜けて緒川口門の番所で休憩となる。ここで藩主の参拝があって、刈谷町の巡行となる。御旅所は末町の秋葉堂境内で、神興はここで休憩、刈谷の町を巡行されて市原稲荷神社に御帰還となる。
「市原神社鎮座記」によると、松平忠房の代に警固に替わって大名ねり物が始まっています。これは寺横町の出し物でした。後ろについた本町・中町・肴町・新町の華車の上では、それぞれ糸唐繰いとからくりや前人形・浄瑠璃が演ぜられ、刈谷町からの神馬の飾りが花をそえ、市原稲荷神社の四月祭りは盛大でありました。ただ唐繰や浄瑠璃などは他所から招いた人によって演ぜられ、技術が伝わらなかったので、明治以降は途絶えてしまいました。
町名が改正される以前までは、それぞれの町内から華車が出て賑わい、一時は16台の華車が出ています。
八朔の祭り
八朔の祭りは市原竜王宮の祭りでした。市原竜王宮は雨乞いのお宮なので、領分中の祭りで盛大でした。徳川家康の江戸城入府の日ともかさなって、元刈谷村や高取村・古浜村から獅子が出たり神楽の奉納がありました。延享3年(1746)の祭りは特に盛大で、この年笠鉾が刈谷町11本、元刈谷・熊・高津波の城下3か村からそれぞれ3本出てるという盛況でした。
市原竜王宮の祭りには、よく花火が奉納されました。筒物から大流星・中流星・立て物などが史料に記されています。花火は丹生川社になってからも行われ、境内で手筒花火などが戦後もしばらく続けられ賑わいました。
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